-誓涙せいるい

迷路の様に複雑に入り組んだ冥(くら)き竹林を抜けると、視界が開け、赤く焔に照らされた戦場、乱れ飛ぶ怒号、剣を交える鋭い音、様々な感覚が激しく身体に押し寄せた。
赤の軍勢が明らかに緑のそれを押しているのが見て取れた。
その中を只一人の姿を探して走る。


尚香の下に『兄が突然本陣を離れ、敵陣に向かった』という知らせが届いたのは、彼女が 陸遜の火計の成功により勢いを増した呉の軍勢と共に戦場を駆けている時だった。
脳内を一陣の風が通り過ぎたように、一瞬、全てが吹き飛ばされ、空白となった。
次いで迫り上がって来たのは焦りとも、緊迫感ともつかない、心の蔵を直に掴まれた様な息苦しさだった。
瞬時に兄が何処へ向かったのかは解ってしまった。
彼が向かう場所は只一つだ。
全ての決着をつける為の…。
彼の人がいる、場所。
すぐに踵を返すと、其処へと向かって走り出した。


煌々と照らし出された戦場の奥へ、奥へと駆ける。
炎に浮かび上がる戦陣の影は今まで経験したどの戦(いくさ)よりも不気味に、グロテスクに思えた。
影は一匹の生きた大きな化け物の様で、人々の叫びは化け物のうなり声の様だと尚香は感じた。
…と、叫びの中に雑じって一際高く響く声が聞こえた。
反射的に声のした方向へ視線を走らせると、切り結んだ二つの影の、一方が膝を地に着くのが目に入った。
…そして。
ゆっくりと。
まるでスローモーションを見ているかのように、もう一方が倒れて行くのが見えた。
どちらがどちらであるのかは判らなかったが、気付けば兄の名を有らん限りに。
声を張り上げ叫んでいた。
動く事は…出来なかった。
一つの黒い大きな影が、一方に近づき、その身体を支えた。
そして、こちらに向かって来るその影が、光に照らされて鮮明に姿を現す。
兄である呉国の主、孫権と呉の武将、周泰であった。
近づいて来るにつれて、兄の纏う豪奢な衣装は至る所が裂け、その朱き色以上に紅い染みが滲み、斑模様となっているのに気付く。
ぐったりとした顔からは血の気が引き、乱れ崩れた髪がへばり付いていた。
その姿が、戦場で倒れた父の姿と重なり、彼女は小さく声を漏らした。
周泰は只静かに大丈夫ですとだけ告げ、孫権を軽く担ぐと敵兵を蹴散らしながら闇へと姿を消した。


それを見送っても尚、動かなかった。
動けなかった。
それでも、尚香は重い足を、倒れたもう一つの影へと進めた。
少しずつ、全てが遠ざかっていく。
倒れた影が、はっきりとしていくにつれて。
自分だけが戦場から切り離された空間にいる様に、全てが遠くなっていた。
敵も味方も。何もかも。
何も聞こえない。何も目に入らない。
土埃と血に塗れて、横たわっているのは。
ずっとその隣に在り続けようと、在り続けたいと願った人。
ゆっくりとその上体を抱き、彼の人を見つめた。
目を閉じたその表情(かお)を見つめて、ポツリと。
その名を。


―玄徳様―…



その時。
微かに。
本当に極僅かに。
彼は瞼を開いて、微笑み―…
再び―…。
目の錯覚だったのかもしれない。
―けれど。


涙が溢れ出す。
頬を伝ってぼたぼたと、彼の人のくすんでしまった緑色の衣装に雫が零れた。
彼を強く、強く抱きしめた。


どうして…私達…


貴方は初めての気持ちを私に教えてくれた、大切な人。
私は貴方の優しい微笑みが大好きだった。


どうして…乱世なんて…


乱世でなければ―…。

しかし私と貴方が出会ったのも乱世であったが故。
政略の為の婚姻。
そして、乱世であったが故に道を別った。
大切な二つのどちらかを選ばなければならなかった。

全ては、乱世が故…


目を強く瞑ってもう一度だけ、強く抱きしめた。
そして決心と共に目を開く。


抱いていた彼の人を静かに地面に横たえ、そっと立ち上がった。


玄徳様…


そっと心の中で呼び掛ける。

私、玄徳様の分まで生き延びてみせるわ―


涙を乱暴に拭った。


踵を返し、振り返らずに、戦場へと走り出す。

戦場の空気が周りに戻ってくるのを感じた。




この涙に誓おう。
貴方の分まで生き延びてみせる。
そして、戦い続けよう。
乱世を終わらせる為の戦いを―…。


振り返りはしない。
この先どんなことがあっても涙は流すまい。

これが、私の流す、最後の涙。



―貴方への、誓いの涙―


―終





今回は、いっちょん初めの作品の「紅花落」の尚香姫視点でした。
捏造度がドンドン上昇中な感じです。
尚香姫をはじめ、無双に出てくる女性はそれぞれに異なる“強さ”を持った女性達ばっかでカッコ良いと思うのです。